1音目
ある晴れた春の日。
木陰はゆっくりと風をふくみ通学路を揺れていた。
僕はその日、日直でみんなよりも早く登校していた。
周りに同じ学校の生徒はいない。
急ぎ足のサラリーマンと、優雅に散歩する犬と余生を楽しんでいるであろうお年寄りばかりだ。
こんな心地い日にゆっくり歩いて登校するのは、なんだかとても爽やかな気分になる。
木陰の動きに目を取られていると、
目の前の横断歩道の信号の青色が点滅を始めた。
渡ってしまおうと走り出そうとしたとき、鈴の音がして制服の裾を引っ張られた。
目の前の信号が赤色になる。
振り向くとそこには同い年くらいの女の子がいた。
真っ黒のワンピースを着て黒いスニーカーを履いている。
両方とも、どことなくくたびれていた。
7分袖から出る腕は黒いワンピースと対照的に色白く、小さな顔からは大きな瞳が溺れ落ちそうだった。
「どうしたの」
僕が思わず聞くと、少し強い風が吹いた。
肩で切りそろえられた髪がふわりと舞う。
「せんじつ、」
少し上ずった声で彼女は話し始めた。
「先日、助けていただいた猫です。
覚えてますか?」
僕が思わず戸惑った顔をすると、彼女はそれに敏感に感じ取ったようで、話を続けた。
「先日といっても、随分前になります。随分前と言っても何年前とかで、しっかり何年とは覚えてなくて。でもあなたが助けてくれたことは覚えています」
早口に言い終えた彼女は泣きそうな顔でこちらを見ている。
その真っ赤な瞳の彼女をなぜか放っておけない気持ちになった。
しかし、僕は今日学校で、さらには日直だ。
「ごめん、覚えてないな。それに君は人間に見える」
そう言って、僕の袖を掴む手を出来るだけ優しく握って放させた。
また鈴の音がした。
腕に黒いリボンのようなものに小さな鈴が通っていてそれが巻きつけてあった。
それが鳴っていたようだ。
その鈴は古びていて、メッキが所々剥がれていた。
それでも持っているということは大切なものなんだなと思った。
彼女の目には涙が溜まっていて、鼻の頭は赤くなっていた。
心が痛くなった。
僕はいたたまれなくなって
「携帯、持ってないの?学校終わったら連絡するから」
と、思わず言った。
彼女はかぶりふる。
今時携帯持っていないことなどあるのか。
「あそこで待ってる」
さっき渡ろうとしていた信号の近くのガードレールを指差す。
「そんな、危ないよ」
「猫は暇をつぶすのが得意だよ」
そう言って彼女は両手を頭の上に持っていって耳のようにして微笑んだ。
そんなこと言われても、ここで彼女を放っておくことはできない。
「君、本は好き?」
「大好き!」
僕は財布を取り出して中に入っている図書館の入館カードを渡した。
「目の前の信号あるでしょ。あれを渡らずに左に曲がる。2つ目の信号を左に曲がったら市立の図書館がある。
このカードで入れる。そこで僕の兄が働いてるからもしカードの人と違うって注意されたら僕の友人だからって言ったら大丈夫だから。ちょっと待てそう?」
彼女はその入館カードを宝物のように胸に握りしめた。
「ありがとう」
きらきらした大きな瞳が僕を映す。
僕は少し微笑んで頷いた。
初めて会ったのに初めて会った気がしなかった。
葉桜の静かな音と、鈴の音が僕の耳の奥で、心地よくこだました。
信号が青になる。
「じゃあ、後で」
そう言って反対方向に別れた。
しばらく経って振り返ると、彼女は木陰に透けてゆっくり歩いていた。
その姿はまるで黒猫のようだった。
あまりにも彼女と景色がよく合っていて綺麗だったから、僕は携帯のカメラでシャッターを切った。
その気配に気づいたのか、彼女が振り返る。
怒られるかと思ったが、その反対で、彼女は僕に満面の笑みを浮かべた。
何か胸の奥が痛いくらい締め付けられる。
彼女はすぐに歩き出したのに、僕は立ち尽くしたままだった。
遠くで学校のチャイムの音がする。
水の中にいるように、反響してよく聞こえなかった。
陽の下で輝く君だけが今の僕の瞳に映る世界の全てだった。