第16話
マネージャーをしているとあっという間に夏休みは過ぎていった。
当たり前だが姉と選んだ服はまだ一度も活躍していない。
宿題ののことが完全に頭から抜けていた私は、
夏休みの終わる一週間前架純に泣きつくと
珍しく彼女もため込んでいた。
それからは毎日私の家で夜まで宿題を頑張り、無事に終えることができた。
新学期が始まっても、広大は私を起こしに来なかった。
はっきりさせなくては、と思った。
気まずいと思って教室に入り思い出した。
私と広大は席が前後だった。
休み時間はできるだけ架純の方に行きやり過ごしたが、
授業中はそうもいかないので背中に圧のようなものを感じながら過ごした。
そのせいか、毎日どっと疲れる。
新学期が始まって一週間。
登校すると架純が「うわ、最悪だね」と、黒板を見て言った。
その目線の先には日直が書いてあるところで
私と広大の名前が書いてあった。
「うそでしょ…」
私は頭を抱えてしゃがみこんだ。
その頭を何かで叩かれた。
何かと思って振り向くと、広大が立っていた。
「日誌、職員室からとってきてやったから」
むすっとした顔で言う。
あれから一言も言葉を交わしていなかったのに
第一声がこれ?と、少し不満げな顔をすると
「なんだよ」
と、私を見下してきた。
感じ悪いと思ったがよくよく考えれば広大はいつもこうっだったかもしれない。
きっといつも通りふるまおうとして失敗しているのだ。
「ありがと」
私は笑顔で日誌を受け取った。広大がそう望むなら
私もできるだけいつもお通りでいようと思った。
架純は最悪だねと言っていたが、これはチャンスだ。
今日こそ伝えよう。そして元通りになりたい。
放課後、架純は先に部活に行った。
教室の人もだんだんまばらになっていく。
私が日誌を書いて広大は黒板を綺麗にし始めるころには
もう、教室には誰もいなった。
すると広大が急に
「それ、誰と交換したんだよ」
と、言いながら机の上に置いていた制汗剤を指さした。
私は中川先輩と交換できたキャップだけ青色のそれが嬉しくて、
いつも見られるように机の上に置いていたのだ。
「これは…」
私が言葉を詰まらせる。いけ、すず、今がチャンスだ。
「実は、」
言葉の途中で急に広大がこちらに向かって歩いてきた。
そして私の制汗剤を奪うように取った。
「なにするの!?」
思わず声を上げたが、広大は無視してそのまま自分の席に行き、
カバンを開けて緑色の制汗剤を出した。
「返して」
それも無視され青色のキャップを取り、自分のキャップを付けた。
そしてそのままカバンを持って教室を出て行った。
私は慌てて追いかけてカバンのひもを引っ張った。
「返して。大切なものなの!」
そう言う私の手を振り払い
「なんでだよ!」
と、広大が叫んだ。「なんで中川先輩がいいんだよ。俺はずっとすずのこと見守ってきた。
中川先輩なんかより色んなすずをたくさん知ってる!
なのに、どうしてなんだよ…」
そういうと膝から崩れ落ちてしゃがみこんだ。
「なんで中川先輩のことすきだって知ってるの?」
「分かるに決まってるだろ。どれだけお前のこと見てきたと思ってるんだよ」
私は息を吸った。言わなくてはならない。
ちゃんと想いを告げてくれた広大にしっかり応えなくてはならない。
「ごめん。広大とは付き合えない」
広大はため息交じりに「そうか」とだけ言った。
「中川先輩には、すずを泣かせたら許さないって言ってある」
頑張って微笑もうとしているのだろうが今にも泣きそうな目をしていた。
「え、いつの間に」
「夏休みの終わりがけに先輩に勝負申し込んだ。
サッカーで。結果はもちろんぼろ負け。でも、それだけお願いしたんだ。
先輩は『当たり前だ』って言ってたぞ」
広大はカバンからさっき私から取ったキャップを差し出した。
「行ってこい、すず」
私はそれを受け取った。
「ごめんね。ありがとう、広大」
私はカバンも持たずに走り出した。
高校に入学して5ヶ月。たくさんのことがあった。
泣いたり怒ったり、飛び上がるほど嬉しかったり、
思い返すこと全て、今まで生きてきた中で一番色鮮やかで
綺麗なものばかりだ。
息を切らしてグランドに行くと先輩はストレッチしていた。
その傍らには私のキャップがついた制汗剤があった。
広大から返してもらったキャップを強く握りしめて
心の中で「どうか、叶いますように」と、願いをかけた。
それを制服のポケットに入れてゆっくりと先輩に近いた。
「先輩」
先輩が顔をあげる。
「まだ着替えてないんだな。みんな待ってるぞ」
そう言って微笑んだ。
その笑顔に胸がきゅんとした。
「私、先輩のことたくさん見てきました。
いつも誰より一番に来て最後まで残って練習してたこと。
落ち込んでる後輩がいたら何時間でも相談に乗ってあげたこと。
最後の試合で負けた時、みんなに隠れて泣いてたこと」
「俺も、広瀬のことたくさん見てきたよ。
最初、サッカーのルール分からなくて本買って勉強してくれてたこと。
怪我の時に効くストレッチとかも勉強してくれてたこと。
試合の度に声が枯れるまで応援してくれてたこと」
そういって先輩は立ち上がって私と向き合った。
「見ててくれたんですね。あの、私、先輩のこと…」
先輩が急に腕をつかんで抱き寄せ、
耳元で「ごめん、俺から言わせて。すきだよ、すず」と囁いた。
先輩の言葉が頭の中で反響する。
「な、んで先に言っちゃうんですか」
そう答えるのが精一杯だった。
「私もすきです。先輩のこと」
私を抱きしめる腕が更にきつくなる。
少し苦しいのに幸せしかなかった。
「ちょっとサボっちゃおうっか」
先輩はそう言うと私の手を握って走り出した。
走って、走って、走って。
時々私はつまずいたけれど、繋いだ手は離さなかった。
学校の一番端の体育館の裏側に着いて、息を切らして立ち止まった。
「あー疲れた」
そういうと先輩は体育館のいくつかあるコンクリートでできた出入り口に座った。
「コンクリート冷たい。広瀬もおいで」
小さく手招きする先輩がとても愛おしい。
横に座ると少し距離があったことが気に入らなかったのか、先輩が間を詰めた。
私は顔が緩むのを抑えられなかった。
「でも先輩、留学しちゃうんですよね」
先輩が頷く。
「4年か。意外と短いのかな」
「俺、手紙書くよ」
「携帯あるのに?」
「うん、なんかいいじゃん。白い封筒にさ、赤と青のストライプが入ってて、
いかにも海外から届きました!って感じの」
なにそれ、と言って笑った。
先輩がそっと手を重ねてきた。
「私も手紙書きます」
「待ってるよ」
嬉しいけど寂しい。とても複雑な気分だ。
目の前に植えられた木の木漏れ日がゆらゆらと揺れる。
影が柔らかい気がした。夏ももうすぐ終わるのかもしれない。
早いなぁ、と思った。
こんな風に、毎日忙しく暮らしていたら、
4年も意外とあっという間かもしれない。
「帰ってくる頃には先輩は22歳で私は20歳か」
遠くの方を見つめた。20歳の私なんて想像もできない。
でも同時に22歳の先輩はもっと想像できなかった。
「これ、ふたりで使わない?」
先輩が私キャップが付いた制汗剤を出してきた。
「最後の一回。ほら、広瀬が誕生日の時
言った『キャップ交換して最後まで使ったら願いが叶う』ってやつ」
「そうだったね。でも私、叶っちゃった。
先輩と両想いになりたいって願ったの」
「じゃあ、すずはラッキーだ。もうひとつ、お願いできるぞ」
そう言って私の手に制汗剤を吸う滴落としてくれた。
先輩の香りがふわっと広がる。それを自分の首元に塗るのが、
なんだか少しこそばゆい気がした。
「広瀬は何をお願いしたの?」
「え、言うの?恥ずかしい」
「俺は、すずがずっと笑顔でいられますように、ってお願いした」
「え!?自分のことお願いしたんじゃないんだ!それにすずって…」
名前で呼ばれて嬉しいのと同時に照れて顔が熱くなった。
「すずって名前かわいいから、呼ばせて。
俺、すずの笑顔だいすきなんだ。だから自分の願い叶えてるようなもんだから」
反則だ。この人の言うことは全部嬉しい。全部たまらない。
「私は先輩がずっと幸せでありますようにって願いました」
「すずも相手のことじゃん」
ほんとだ、そう言ってふたりで笑った。
幸せだ。なんの根拠もないけれど離れていても大丈夫。そんな気がした。
そして何よりも、私がこの人とずっと一緒にいたい。
その気持ちはきっと永遠に消えないと思った。