第6話
しとしと、と雨が降る。
小雨だからか少し霧のようで
私を包んだ。
「何してるの、すず、風邪引くよ」
傘を差し出す架純。
「ありがとう」
本当は、もう少しこのまま雨に打たれていたい。
「雨の日はやっぱり部活終わるの早いね」
そうだね、とそっと頷く。
心の底に落ちた鉛が表情を引きつらせる。
「ねぇ、私ドーナツ食べたい。駅前のいつもの所、行こう?」
架純が振り向く。
私は架純のいくままに着いて言った。
駅前のドーナツ屋さんに着くと、架純は何個も頼んだ。
「すずは?これ、美味しいよ」
そう言ってはどんどん私のお皿に乗せていく。架純が「乗らない」と涙目で諦めるまで待って席に座った。
「わぁ、これ美味しい!」架純が美味しそうにドーナツを食べる。
小動物のようでかわいい。
最近聞いた話だが、架純も片思いを始めたらしい。
毎朝同じ電車に乗り合わせる背の高い人で隣のクラスの、確か、福士蒼汰って名前だった気がする。
「せっかく中川先輩と2人きりで話せたのに、元気ないねぇ」
ドーナツを頬張るのをやめて私を見る。
その純粋な目で見られると私は隠し事できなくなる。
私は、心の内を架純に話した。
「なるほど、その、去年までいたマネージャーの先輩のことを中川先輩が好きなんじゃないかって不安ってことね」
私が中川先輩のことを好きなように、中川先輩に好きな人がいたって何1つおかしくない。
なんてわがままなんだろう。
「すず!」
架純が私の両肩を掴み、目を合わせてきた。
「いい?好きになって、付き合ってって当たり前のことじゃなんだよ。
それでいて、すずのその想いはわがままなんかじゃない!
すずは初恋だからきっとわかんないこともたくさんあって
ちょっとしたことで戸惑うと思う。
でもね、せっかく中川先輩のことすきになれたんだから、その気持ちを大切にしてあげて。
中川先輩を見てるだけで少し心が明るくなること、中川先輩に会えるかもって思ったら朝の寝癖直しも少し念入りになっちゃうこと、中川先輩と話せたら周りが見えなくなるくらい幸せになること。
笑顔なんて向けられたらもう、たまらなくこの辺がぎゅーってしちゃうこと」
架純が片手を肩から離して胸のあたりで握りしめた。
「辛いこともあると思う。必ず起きてしまうと思う。でも、すずは大丈夫。先輩のことだいすきだもん。見ててわかる。だいすきだもん」
架純は心が読めるのかと思った。
そして涙が溢れた。
そうだ、どんなつらくても何があっても
中川先輩からたくさんの幸せをもらっている。
「泣かないの、笑って。すずは可愛いんだから」
そう言うと架純は私のほっぺたをつねった。
「痛いよ」
思わず笑った。
「そう、それ。すずはそれが1番可愛い」
架純、ありがとう。
片思いでも立派な恋なのだ。
先輩に会えなくても、ただ、傍にいるだけで幸せになる。可愛くなろうと思える。
そんな気持ちを初めてくれた先輩。
「明日からまた頑張ろう」
架純を見て言った。
「そのいきだよ…」
架純が急に目を丸くした。
「え?なに、どうしたの?」
目を見開いたまま私の後ろを指差している。
振り返るとそこには中川先輩がいた。
「お疲れ」
少しぎこちない笑顔で中川先輩は言った。
「お疲れ様です!」
2人とも勢いよく立ち上がる。
「せ、先輩はなんでここに…」
架純が慌てながら聞く。
「姉が、今日発売のそれ、どうしても食べたいから帰りに買ってきてって頼まれて」
それ、と言った時私のお皿に乗った新作を指差した。
架純が「おごるから」と言って乗っけられた山盛りのドーナツのてっぺんに乗っていた。とても恥ずかしくなった。
察した架純は「これも、私ので…」と、わかりやすい嘘をついていた。
「あの、先輩!どこから聞いていましたか?」
勇気を振り絞って聞いた。
「"明日またがんばろう"って聞こえたくらいかな。それまで広瀬たちだって気づかなくて」
ほっとしている架純が目のはじに見えたが私は分かっていた。
これは嘘だ。
先輩は優しいから聞いてないふりをしくれているのだ。
その証拠にさっきからしきりに鼻を触っている。
この間山田くんと中川先輩が話してる時に知った。
先輩は嘘をつく時鼻を触るのだ。
後で山田くんに聞いたのだが、本人は気づいていないが部員の間では有名な話らしい。
「話の途中にごめんね。じゃ」
気まずそうに踵を返して店を出た。
「よかった。聞こえてなくて」
架純は安心しきった顔で座り直した。
「架純ごめん、ちょっと待ってて」
何か架純の声が聞こえた気がしたが
私はそれを無視して先輩を追いかけた。
踏切を渡れば駅だ。その駅に向かって歩く先輩の背中に向かって叫ぶような声で言った。
「聞こえてて、よかったのに!」
中川先輩が振り返る。
追いつこうと走ろうとしたが、踏切の遮断機が降りてしまった。
線路を挟んで先輩と向かい合う。
カンカンカン…と無機質な音が雨と混ざって、周りの音がよく聞こえなかった。
聞こえてほしい一心で声が大きくなる。
「中川先輩を見てるだけで少し心が明るくなること!
中川先輩に会えるかもって思ったら朝の寝癖直しも少し念入りになっちゃうこと!
中川先輩と話せたら周りが見えなくなるくらい幸せになること!
笑顔なんて向けられたらもう、たまらなくこの辺がぎゅーってしちゃうこと!!」
私は架純と同じように胸の前で手を握った。
泣きそうだった。いや、泣いていたかもしれない。でも霧のような雨のせいで涙なのか雨なのか分からない。でもそれでよかった。
「本当は私、先輩のこと…」
バン!と、大きな音がした。電車が目の前を通過していく。
その大きな音で我にかえった。
私、今何言おうとしてた?
恥ずかしくて消えたくて、とりあえず電車が通り過ぎるまでにその場から走り去った。
髪の毛もお気に入りの制服も、ローファーも水浸しになっていく。
それでも走り続けた。
気がついたら学校のグランドに来ていた。
もう誰も練習していなかった。
霧みたいだった雨は大粒になり、私の乾いた隙間を容赦なく濡らした。
「何してんだよ」
後ろから肩を掴まれた。
振り返るとそこには広大がいた。
「なんでもないよ」
そう言って顔をこすって雨粒を流した。
「泣いてるじゃん」
広大が雨粒を拭う手を掴む
「泣いてないよ!雨だよ!」
それを振り払って後ろに下がった。
八つ当たりだと分かっている。
すると、広大は腕を引き、私を抱き寄せた。
「やめてよ!」
「やめない」
広大が耳元で囁いた。
雨音が一層強くなる。
先輩に触れられてひりひりしていた首筋はもう雨に濡れて冷めきっていた。
「すず、俺じゃダメか…?」
広大は雨音に消されそうな小さな声で言った。
「何言ってるの…?」
広大は幼馴染じゃない。
頭いいくせに本番に弱くて、
第一志望の高校落ちて、
私と同じ高校になんて通っちゃってさ。
ほんと、バカだよね。
いつもならそうふざけられた。
でも抱きしめる力と相反する弱い声が
それを言わせてくれなかった。
黙っているしかなかった。
「俺はずっと昔からすずのこと見てきた。すずのことしか見てなかった。
お前がバスケ始めるから俺も始めた。
1番近くでお前を見守るためだった」
私は一言も返さない。
相槌さえ打たない。
もちろん抱きかえしもしなかった。
抱きしめられているのに、体温があるのに、なぜか広大が触れている部分はひどく冷えて無機質なものに感じられた。
「すきだ」
視界が真っ暗になった。
もう、前のようには戻れない。
言われたわけではないのにそう悟った。