yumeshosetsuol’s blog

ただのOLの趣味です。今は2つの別の話を同時進行で更新しています。カテゴリーに分けると読みやすいです。

8話

『音が喜ぶことを、考えてしまう癖。もう、やめなよ』
異業種交流会の日に愛莉から言われた言葉が、頭から離れない。真っ直ぐな彼女の双眸の奥に映った、狼狽えた自分自身の顔も。
何度も耳の奥で響いて、脳裏に浮かんで、その度にどうしようもなさに胸が苦しくなる。
もう音を喜ばせることも、幸せにすることもできないのに、気がつけば、いつの間にか音のことを考えていて、どうすればいいのかずっとわからないでいるのだ。
心配しなくても、音は天馬ではない別の男━━━神楽木の隣りで、幸せに笑っているはずなのに。


f:id:yumeshosetsuol:20181004085217j:image

 

音の幸せのために、天馬が最後にしてあげられることは、音に別れを告げることだった。
それは本心で望んだ結果ではなかったけれど、もうその選択そのものが「音が喜ぶこと」を優先した結果で、無意識にそれを選んでいたことが、愛莉の言葉を証明していた。
夏は過ぎ去ったのに、自ら告げた別れの言葉は今も天馬の中に残ったままだ。


f:id:yumeshosetsuol:20181015215349j:image

 

『もう終わりにしよう、音。僕が音のために出来ることは、音が音らしくいるために背中を押すことだ』

 

その言葉に、偽りはない。
もしあの時別れなければ、きっと今頃、音は天馬の隣りで笑っていたのだろう。
神楽木への想いを殺して、彼女は天馬に笑いかけてくれたはずだ。
そしてきっと、音を変えたのは神楽木だということを認められずに、自分が音を変えられなかったことに苛立ち、彼女への罪悪感と行き場のない虚無感に苦しんだのだろう。
音の幸せを願って別れたが、想像できる未来の自分に怖くなったのかもしれない。

 

そんな考えが堂々巡りをして、出口のない迷宮に入り込んでしまった。
何か気を紛らわせたくて、8,9月は学園祭の準備と武道の練習に没頭した。
けれど、昼間は忘れていられても、眠ると昔の夢を見る。
亡き母が音との婚約を喜んでいる夢。
何も知らない天馬と音が、無邪気に笑っている夢。
そして、楽しげに笑っていた音が、ふいに悲しげな目をする。


f:id:yumeshosetsuol:20181015233536j:image

 

『天馬くんは、私のことを信じてくれないんだね…』

 

ただそれだけを呟いて、音の姿は消えてしまう。
音を信じてないわけではないのだと、手を伸ばして叫んでも、決して捕まえられない。風に溶けるように、ゆらりとすり抜けて消えてしまう。
いっそのこと、責めてくれればいいのに。
何故信じてくれなかったのかと、怒りをぶつけてくれればいいのに。
そうすれば、天馬はすべてを受け止めて、ごめんと謝ることができたのに。
けれども、夢の中の音は悲しげな呟きを残して消えてしまうのだ。

今日も、天馬は夢を見る。
夢の中でしか会えない幸せな頃の記憶と、自身を責め苛む悲しい記憶の狭間に、堕ちていく。

『音が喜ぶことを、考えてしまう癖。もう、やめなよ』
浅いまどろみの中で、澄んだ声が聞こえた気がした。